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書評「山中優著『ハイエクの政治思想』勁草書房2007」

橋本努200705

 

 著者の山中優氏と小生は、数年前にチリの首都サンティアゴで開かれたモンペルラン・ソサエティでお会いして以来、親しく交友を続けてきた。氏は幼少の頃に片腕を失い、かなり不自由な生活を強いられてきた障害者である。しかし実際に接してみると、氏はその不自由を感じさせないほど朗らかで、すぐれた人徳に満ちている。おそらくその背後では、人並みならぬ苦労と強靭な努力があり、日々の逆境を克服されてきたのであろう。氏は京都大学に合格したのちに研究者の道を選ばれ、そしてこのたび、第一級の研究書を刊行された。まず、このような奇跡的な人生を歩んでいる山中氏に対して、私は最大の賛辞を送り、心から敬意を表すると同時に、本書の刊行を喜びたい。

 本書はおそらく、ハイエク研究において、時代を画する意義をもつだろう。すでに日本のハイエク研究の水準はかなり高いと言えるが、本書は、その水準を見事に超えている。著者は、ハイエクが思想家としてどのような苦境を抱えていたのかを、内面的に抉り出すような洞察力を発揮しており、これは思想研究者としては最高の力量であって、氏の思想的な成熟を示しているように思う。しかも本書は、ハイエクの思想的意義を、現代のグローバリズムとの関係で明快に示している。著者は、これまでの長年の研究によってハイエクを完全にマスターしており、ハイエクと対等の思想的水準から、その現代的評価を引き出している。これは快挙というほかないだろう。

 

 本書の内容を大きく分けると、前半は政治思想で、後半は経済思想(とくに現代のグローバリズム論)となっているが、前半・後半とも一貫して、ハイエク思想のなかに「自由のエトス」を読みこもうとする価値関心があって、この価値関心によって本書は、体系的に叙述されている。21世紀の現代において、プロテスタンティズムに代わる資本主義(市場経済)社会のエトスとは何か。この問題にハイエクは明快な答えを出したわけではないが、著者はハイエクの断片をたどりつつ、実に深い考察に至っている。すなわち著者は、ハイエクにおけるカルヴィニズム評価の両義性や、創造力発揮という積極的自由の理念を考察し、そこからハイエクのあいまいさを超えて、「ハイエク自身の所説よりも積極的な信念、すなわち、『たとえ幾多の失敗を重ねることになるとしても最終的には必ず報われることになる』という信念が、単なる方便以上のものとして説かれなければならない」(188-189頁)、と訴えるのである。

 力強い主張である。もし市場社会において、努力がまったく報われない世界になってしまえば、人々はこの体制に深いコミットメントをもつことはなく、惜しみない努力を傾けることはないであろう。しかしわたくしたちの市場社会は、人々に希望を与えるものでなければならないはずであり、そのようなものとして、ハイエクの市場社会論を読みこむ必要がある。このような関心から著者は、本書においてさまざまな議論を展開する。最も興味深い議論は、おそらく次の二点である。

第一に、著者はハイエクの人間観について、次の四つの説を区別した上で、「ハイエクは第二の説から第三の説へと移行した」と主張している。

 

(1)       強い適合説――人間は本来、市場秩序に適合的であるから、政治権力によって妨げられさえしなかったならば、自ずから市場はすみやかに形成されてくるはずだという考え方。

(2)       弱い適合説――人間は本来、市場秩序に不適合であるから、一朝一夕に市場秩序が形成されることはできないが、社会過程のなかで市場に適合的な人間類型へと自ずから徐々に矯正されることは可能なため、いずれは市場が自生的に出現してくることになるという考え方。

(3)       弱い不適合説――人間本性は市場秩序に対してかなり不適合であり、何らかの歴史的偶然によって市場秩序が幸いにも自生的に出現することは不可能ではないにせよ、依然として人間本性は不適合であり続けるため、市場秩序維持のための政治権力の働きが必要不可欠である。

(4)       強い不適合説――人間本性はそもそも市場秩序に対して全く不適合であり、また徐々にそれが自ずから矯正されることも不可能であって、権力的に抑えられなければ無秩序状態が生じるだけであるから、社会秩序の形成・維持のためには強い政治権力が絶対に不可欠である。

 

 人間本性は、市場秩序に適合的ではない。にもかかわらず、日常生活において快楽主義的な功利計算を放棄し、ある不可知なものへの畏怖の念を示した集団は、偶然にも市場文明を発展させることに成功する。するとその集団の採用したコンヴェンションが、次第に他の集団にも広まり、市場文明はグローバルな規模で繁栄していく。ただしそこでは、いぜんとして人間本性は市場秩序に不適合であるから、つねに政治権力による補完が必要である、と著者は主張している。

 第二に、著者は、バブル経済の問題について、ハイエクの視点から一定の評価を下している。バブル経済、あるいは分割民営化路線の経済社会は、非生産的な投機行動(196頁)や、消費の享楽的風潮(204頁)を助長し、「規律精神に支えられた健全な市場経済」を衰退させてしまった。しかしこのような現況は、ハイエクの理想とする自由社会ではない。ハイエクにとって自由社会の理想とは、資本を蓄積して家族と仕事の将来に注意を払う人々を「尊敬する」気風のある社会であり、私たちが「たくさん消費したい」という欲望によって突き動かされるよりも、「類似の目的を追求する仲間から成功したと思われたい」という願望によって突き動かさせるような、エトスに満ちた社会である(195頁)。そして著者によれば、「投機行動」は、ハイエク的な自由の精神に反するものだというのである。このハイエク解釈も、きわめて面白い。

 以上の二つの立論、すなわち「弱い不適合説」と「投機行動=反自由主義精神」説から、著者は、ハイエクの思想的意義を現代日本において実現するために、自由化=規制緩和政策には、慎重を期する必要がある、との結論に至っている。

私が理解するかぎり、著者の立場は、新保守主義の国内政策理念を支持するもので、それは例えば、I・クリストルのようなネオコン論者のハイエク批判を基本的に支持する方向で、ハイエクの思想を実現する方向性をさぐるものであろう。ハイエクにおける道徳性やエトスを最大限に読みこみ、その読みこみを増幅するかたちでハイエクを超えようとするならば、おそらく現代の新保守主義に至るように思われる。

こうしたハイエク解釈は、なるほどきわめて現代的であると言えるが、しかしこのような方向で現代のグローバル資本主義と向き合おうとするならば、著者も理解するように、「ハイエク自身の限界を超えて、自由の思想的基盤を整えていかなければならない」(211頁)。では、ハイエクを超える自由の思想的基盤とはなにか。山中氏はおそらくこの大きな問題に、これから取り組まれていくのであろう。私も氏とともに、この問題を考えていきたい。

ただここで、あえて議論を起こすならば、私は拙著『帝国の条件』において、現代のグローバル世界を「善き帝国」へ再編するための具体的なビジョンを、ハイエクとマルクスの思想的融合によって試みているので、はたして山中氏が私のビジョンにどのような意見を示されるのかを、お伺いしたいと思う。私は山中氏のように、「自由化=規制緩和政策には慎重を期する必要がある」というコンヴェンションの理念をもって、「自由の思想的基盤の整備」とは考えていない。

もちろん、規制緩和政策には慎重を期する必要があるだろう。しかし慎重かどうかということよりも、何をどのように改革するかについて、思想理念は何らかの指針を示すべきではないか。

山中氏は、自らの「弱い不適合説」において、「市場秩序維持のための政治権力の働きが必要不可欠である」としているが、「自生化主義」の観点から私は、この命題を次のように読み替えたい。すなわち、

 

(5)「人間本性は、市場に対して適合/不適合の要素をあわせもち、市場は放っておけば自然に秩序化するとは限らないので、市場を秩序化したり発展させていくためには、人間本性の自生的モメントを活性するための、政治的権力の働きが必要不可欠である」

 

と。このように読み替えると、政治権力の果たすべき意義について、山中氏とはまったく異なる含意が生まれるであろう。もし山中氏の「弱い不適合説」から、「規制緩和慎重論」しか導かれないとすれば、それはハイエク読解として貧困であるだろうし、また山中氏は、そのような議論をもってこと足れりとしているわけではないと思う。規制緩和やその他の政策について、私たちが将来のビジョンを試行錯誤するためには、ハイエクの中の「自生化」というモメントを読みこむ必要があるのではないか。はたしてハイエクの思想から、現代の政策論議に必要な具体的指針を読み込むことができるかどうか。今後も、山中氏と議論を継続していきたい。

最後に、本書は副題がとてもいい。「市場秩序にひそむ人間の苦境」。まさにこの苦境を抉り出すことによって、本書は、崇高な思想的領野を拓いている。